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2008年9月

9月30日(火)

ヨブ記(ヨブ3・1-3、11-17、20-23)
  なぜ、労苦する者に光りを賜るのか
ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った。

 わたしの生まれた日は消え失せよ。
 男の子をみごもったことを告げた夜も。

 なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
   死んでしまわなかったのか。
 せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
 なぜ、膝があってわたしを抱き
 乳房があって乳を飲ませたのか。
 それさえなければ、今は黙して伏し
 憩いを得て眠りについていたであろうに。
 今は廃墟となった町々を築いた
    地の王や参議らと共に。
 なぜわたしは、葬り去られた流産の子
 光を見ない子とならなかったのか。
 そこでは神に逆らう者も暴れ回ることをやめ
 疲れた者も憩いを得〔る。〕

 なぜ、労苦する者に光を賜り
 悩み嘆く者を生かしておかれるのか。
 彼らは死を待っているが、死は来ない。
 地に埋もれた宝にもまさって
   死を探し求めているのに。
 墓を見いだすことさえできれば
 喜び躍り、歓喜するだろうに。
 行くべき道が隠されている者の前を
   神はなお柵でふさがれる。

ルカによる福音(ルカ9・51-56)
  イエスは、エルサレムに向かう決意を固められた
  イエスは、天にあげられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しよ うと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネは それを見て、
「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。

9月29日(月)

ダニエルの預言(ダニエル7・9-10、13-14)
  幾千人が御前に仕えた
〔わたしが〕見ていると、
王座が据えられ
「日の老いたる者」がそこに座した。
その衣は雪のように白く
その白髪は清らかな羊の毛のようであった。
その王座は燃える炎
その車輪は燃える火
その前から火の川が流れ出ていた。
幾千人が御前に仕え
幾千人が御前に立った。
裁き主は席に着き
巻物が
繰り広げられた。

夜の幻をなお見ていると、
見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
権威、威光、王権を受けた。
諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
彼の支配はとこしえに続き
その統治は滅びることがない。

ヨハネの黙示(または 黙示録12・7-12)
 ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだ
  さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼 らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上にもろともに投げ落とさ れたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。
「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
神のメシアの権威が現れた。
我々の兄弟たちを告発する者、
昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
投げ落とされたのである。
兄弟たちは、子羊の血と
自分たちの証しの言葉とで、
彼に打ち勝った。
彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
このゆえに、もろもろの天と、
その中に住む者たちよ、喜べ。」

ヨハネによる福音(ヨハネ1・47-51)
  神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる
〔そのとき、〕イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。
「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、
「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、
「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。
「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。
「はっきり言っておく。」天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

9月28日(日)

エゼキエルの預言(エゼキエル18・25-28)
  悪人が自分の行った悪から離れるなら、彼は自分の命を救うことができる
〔主は言われる。〕
「お 前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しい人が その正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの 業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」

使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・1-11、または2・1-5)
  キリスト・イエスにも見られることを、互いに心がけなさい
〔皆 さん、〕あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみは憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を 抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たして下さい。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れ た者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるもので す。
  《キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり人間と同 じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆ る名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、
「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。》

マタイによる福音(マタイ21・28-32)
  兄は考え直して出かけた。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう
〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕
「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、
『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は
『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は
『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが、
「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。
「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

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9月27日(土)

                    

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9月26日(金)

コヘレトの言葉(コヘレト3・1-11)
  天の下の出来事にはすべて定められた時があ
何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。

人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。

ルカによる福音(ルカ9・18-22)
  「あなたはメシアです。」人の子は必ず多くの苦しみを受ける
 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、
「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。
「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。
「神からのメシアです。」
 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

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9月25日(木)

コヘレトの言葉(コヘレト1・2-11)
  太陽の下、新しいものは何ひとつない
コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。

太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦もなんになろう。
一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。

何もかも、もの憂い。
語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
昔のことに心を留めるものはない。
これから先にあることも
その後の世にはだれも心に留めはしまい。

ルカによる福音(ルカ9・7-9)
  ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は
〔そのとき、〕領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、
「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」という人もいて、更に、
「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。
「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。

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9月24日(水)

                    

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9月23日(火)

箴言(箴言21・1-6、10-13)
  さまざまな格言
主の御手にあって王の心は水路のよう。
主は御旨のままにその方向を定められる。
人間の道は自分の目に正しく見える。
主は心の中を測られる。
神に従い正義を行うことは
いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。
高慢なまなざし、傲慢な心は
神に逆らう者の灯、罪。
勤勉な人はよく計画をして利益を得
あわてて事を行う者は欠損をまねく。
うそをつく舌によって財宝を積むものは
吹き払われる息、死を求める者。
神に逆らう者の欲望は悪に注がれ
その目は隣人をも憐れまない。
不遜な者を罰すれば、浅はかな者は知恵を得る。
知恵ある人を目覚めさせるなら
   彼は知識を得る。
神に従う人は逆らう者の家を識別し
神に逆らう者を災いに落とす。
弱い人の叫びに耳を閉ざす者は
自分が呼び求めるときが来ても答えは得られない。

ルカによる福音(ルカ8・19-21)
  わたしの母、わたしの兄弟とは、神に言葉を聞いて行う人たちのことである
〔そのとき、〕イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、
「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

9月22日(月)

箴言(箴言3・27-34)
  主は曲がったものをいとわれる
 
 〔わが子よ、〕
施すべき相手に善行を拒むな
あなたの手にその力があるなら。
出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな
あなたが今持っているなら。友に対して悪意を耕すな
彼は安心してあなたのもとに住んでいるのだ。
理由もなく他人と争うな
あなたに悪事をはたらいていないなら。
不法を行う者をうらやむな、その道を選ぶな。
主は曲がった者をいとい
まっすぐな人と交わってくださる。
主に逆らう者の家には主の呪いが
主に従う人の住みかには祝福がある。
主は不遜な者を嘲り
へりくだる人に恵みを賜る。

ルカによる福音(ルカ8・16-18)
  入ってくる人に光が見えるように、ともし火を燭台の上に置く
〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕
「と もし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あ らわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えら れ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」

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9月21日(日)

イザヤの預言(イザヤ55・6-9)
  わたしの思いは、あなたたちの思いと異なる
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば
   豊かにしてくださる。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
   主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
   あなたたちの思いを、高く超えている。

使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ1・20c-24、27a)
  わたしにとって、生きるとはキリストである
〔皆 さん、〕生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストで あり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの 間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、 あなたがたのためにもっと必要です。
 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。

マタイによる福音(マタイ20・1-16)
  わたしの気前のよさをねたむのか
〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労動者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
『あなたたちのぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので
『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、
『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに
『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、
『労 働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリ オンずつを受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもられるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取る と、主人に不平を言った。
『最後に来たこの連中は。一時間しか働きませんでした。丸一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。
『友 よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者に も、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このよ うに、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

9月20日(土)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・35-37、42-49)
  蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちない者に復活する
〔皆 さん、あなたがたのうちには、〕死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、 死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。
  死者の復活 もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちない者に復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いもの でも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
「最 初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の 命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からで きたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属す るその人の似姿にもなるのです。

ルカによる福音(ルカ8・4-15)
  良い土地に落ちたのは、御言葉をよく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである
〔そのとき、〕大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話になった。
「種 を蒔く人が種まきに出て行った。」蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、 水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかに種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の 実を結んだ。」イエスはこのように話して、
「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。
「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、
 『彼らが見ても見えず、
  聞いても理解できない』
ようになるためである。
  このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御 言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人た ちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生に思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちであ る。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

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9月19日(金)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・12-20)
  キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしい
〔皆 さん、〕キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけです か。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの 信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえみなされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復 活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しな かったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅ん でしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

ルカによる福音(ルカ8・1-3)
  一緒にいた婦人たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた
〔そ のとき、〕イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町は村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやして いただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、 そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

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9月18日(木)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・1-11)
  わたしたちはこのように宣べ伝え、あなたがたはこのように信じた
兄 弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音を告げ知ら せたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も 大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ こと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たち に同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そ して最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と 呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒 よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このよ うに宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

ルカによる福音(ルカ7・36-50)
  この人が多くの罪を赦されることは、わたしに示した愛の大きさで分かる
〔そ のとき、〕あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イ エスがファリサイ派の人の家に入って食事の席についておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきて、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながら その足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人々はこれを見て、
「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、
「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、
「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話になった。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、
「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、
「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。
「こ の人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あな たはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかっ たが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少な い者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、
「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、
「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

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9月17日(水)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12・31~13・13)
  信仰と希望と愛は、いつまでも残る。もっとも大いなるものは愛である
〔皆さん、〕あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
  愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なもの は廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今 は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっ きり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛であ る。

ルカによる福音(ルカ7・31-35)
  笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった
〔そのとき、イエスは言われた。〕
「今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。
 『笛を吹いたのに、
  踊ってくれなかった。
  葬式の歌をうたったのに、
  泣いてくれなかった。』
洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、
『あれは悪霊に取り付かれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、
『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」

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9月16日(火)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12・12-14、27-31a)
  あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分である
〔皆 さん、〕体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊に よって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの 霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成り立っています。
 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人は その部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物 を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろう か。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心 に努めなさい。

ルカによる福音(ルカ7・11-17)
  若者よ、あなたに言う。起きなさい
〔そ のとき、〕イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門の近づかれると、ちょうど、ある母親が一人息子が死ん で、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、
「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、
「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、
「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、
「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

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9月15日(月)

ヘブライ人への手紙(ヘブライ5・7-9)
  キリストは従順を学ばれ、永遠の救いの源となられた
キ リストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態 度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分 に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源とな〔られたのです。〕

ヨハネによる福音(ヨハネ19・25-27)
  御子の苦しみを見たいつくしみ深い母は、どれほど嘆き悲しまれたことか(続唱「スタバト・マーテル」より)
〔そのとき、〕イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、
「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。
「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

(または)

ルカによる福音(ルカ2・33-35)
  あなた自身も剣で心を刺し貫かれる
〔そのとき、イエスの〕父と母は、幼子について言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められた。また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

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9月14日(日)

民数記(民数記21・4b-9)
  蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る
〔その日、イスラエルの民は旅の〕途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力も失せてしまいます。」主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。
「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。
「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇ば人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)
  神は、へりくだったキリストを高く上げられた
〔イ エス・〕キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者にな られなした。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさ る名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、
「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

ヨハネによる福音(ヨハネ3・13-17)
  人の子も上げられねばならない
〔そのとき、イエスはニコデモに言われた。〕
「天から降ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

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9月13日(土)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント10・14-22)
  わたしたちは大勢でも一つの体である。皆が一つのパンを分けて食べるからである
わ たしの愛する人たち、偶像礼拝を避けなさい。わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。わたしたちが神を 賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからで す。肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。わたしは何を言 おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。いや、わたしが言 おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたも悪霊の仲間になってほしくありませ ん。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも、主にねたみを起こさせるつもりなので すか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。

ルカによる福音(ルカ6・43-49)
  わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
「悪 い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは 集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、こころからあふれ出ること を語るのである。
 わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを 行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押 し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水 が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

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9月12日(金)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント9・16-19、22b-27)
  わたしはすべての人に対してすべてのものになった。何とかして何人かでも救うためである
〔皆 さん、〕わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りになりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不 幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬と は何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときに、それを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
  わたしは、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりまし た。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
  あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は 皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、 やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分 の方が失格者になってしまわないためです。

ルカによる福音(ルカ6・39-42)
  盲人が盲人の道案内をすることができようか
〔そのとき、イエスは弟子たちに〕たとえを話された。
「盲 人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その 師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向 かって、
『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

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9月11日(木)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント8・1b-7、11-13)
  兄弟たちの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことである
〔皆 さん、〕知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げ〔ます〕。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。し かし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、ま た、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼 ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の 主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
 しかし、この知識がだれにでもあ るわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去 らず、良心が弱いために汚されるのです。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったの です。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食べ物の ことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

ルカによる福音(ルカ6・27-38)
  あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
「わ たしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のた めに祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれでも与えな さい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところ で、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあ ろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人でさえ、同じものを返してもらおうとし て、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、い と高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者とな りなさい。
 人を裁くな、そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められること がない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量り をよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

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9月10日(水)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(1コリント7・25-31)
  妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない
〔皆 さん、〕未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けていませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。今危機が迫っている状態 にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせ ず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではあり ません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。兄弟たち、わたしは こう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、ものを買 う人は者を持たない人のように、世のことにかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

ルカによる福音(ルカ6・20-26)
  貧しい人は、幸いである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である
〔そのとき、〕イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
 「貧しい人々は、幸いである、
 神の国はあなたがたのものである。
 今飢えている人々は、幸いである、
 あなたがたは満たされる。
 今泣いている人々は、幸いである。
 あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
 しかし、喜んでいるあなたがたは、不幸である、
 あなたがたはもう慰めを受けている。 
 今満腹している人々、
    あなたがたは、不幸である。
 あなたがたは飢えるようになる。
 今笑っている人々は、不幸である。
 あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

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9月9日(火)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント6・1-11)
  兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で
〔皆 さん、〕あなたがたの間で、一人の仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がない のですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。それなのに、あな たがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わた したちは言っています。あなたがたの中には弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人 々の前で、そもそも、あなたがたに間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪わ れるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神 の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な 者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、 主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。

ルカによる福音(ルカ6・12-19)
  イエスは祈って夜を明かされ、十二人を選んで使徒と名付けられた
  そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それ は、イエスがぺトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、 熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者になったイスカリオテのユダである。
 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所 にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また 病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力 が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

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9月8日(月)

ミカの預言(ミカ1・4-a)
  産婦が子を産むときまで
エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
まことに、主は彼らを捨ておかれる
産婦が子を産むときまで。
そのとき、彼の兄弟の残りの者は
イスラエルの子らのもとに帰って来る。
彼は立って、群れを養う
主の力、神である主の御名の威厳をもって。
彼らは安らかに住まう。
今や、彼は大いなる者となり
その力が地の果てに及ぶからだ。
彼こそ、まさしく平和である。

使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・28-30)
  神は前もって知っておられた者たちを、あらかじめ定められた
〔皆 さん、”霊”が、〕神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働きくということを、わたしたちは知っていま す。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためで す。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

マタイによる福音(マタイ1・16、18-23,または1・18-23)
  マリアの胎の子は精霊によって宿った
   《アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図 。
  アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、レツはヘツロンを、ヘツロンはアラ ムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オ ベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。
 ダビデ王はウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、ラハブはアビヤ を、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼ キヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
 バビロン へ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムは アゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリア の夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリア はヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになた。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざ たにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを 迎え入れなさいl。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさいこの子は自分の民を罪から救うからで ある」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

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9月7日(日)

エゼキエルの預言(エゼキエル33・7-9)
  あなたが悪人に警告しないなら、血の責任をわたしはお前の手に求める
〔主の言葉がわたしに臨んだ。〕
「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。わたしが悪人に向かって、
『悪 人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の 責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自 分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」

使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ13・8-10)
 愛は律法を全うする
  〔皆さん、〕互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、
「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

マタイによる福音(マタイ18・15-20)
  言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
「兄 弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一 人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会 に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
  はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておく が、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名 によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

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9月6日(土)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(コリント4・6b-15)
  わたしたちは、飢え、渇き、着る物がない
〔皆さん、わたし自信とアポロ〕の例から、
「書 かれているもの以上に出ない」ことを学〔び、〕だれも。一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないように〔してください。〕あなたを ほかのものたちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのな ら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっ ています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。考えてみると、神は わたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に 引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたし たちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは 尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手 で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのもの の滓とされています。
 こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。

ルカによる福音(ルカ6・1-5)
  なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか
 ある安息日に、イエスが麦畑を通っていかれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が、
「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。イエスはお答えになった。
「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」そして、彼らに言われた。
「人の子は安息日の主である。」

9月5日(金)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント4・1-5)
  主は心の企てを明らかにされる
〔皆 さん、〕人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であるこ とです。わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしま せん。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまで は、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめ にあずかります。

ルカによる福音(ルカ5・33-39)
  花婿が奪い取られるとき、彼らは断食することになる
〔そのとき、ファリサイ派の人々や律法学者たちは〕イエスに言った。
「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのときには、彼らは断食することになる。」そして、イエスはたとえを話された。
「だ れも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いも のには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋も だめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。
『古いものの方がよい』と言うのである。」

9月4日(木)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント3・18-23)
  一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである
〔皆さん、〕だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。
 「神は、知恵ある者たちを
    その悪賢さによって捕らえられる」
と書いてあり、また、
 「主は知っておられる、
  知恵のある者たちの議論がむなしいことを」
とも書いてあります。ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

ルカによる福音(ルカ5・1-11)
 彼らは、すべてを捨ててイエスに従った
〔そ のとき、〕イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御 覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼み になった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、
「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、
「先 生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのと おりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは 来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベタイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

9月3日(水)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント3・1-9
    わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物である
  兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることはできず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語り ました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食べ物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。 相変わらず肉に人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませ んか。ある人が
「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が
「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎ ないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕え た者です。わたしはは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長 させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれ働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わ せて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

ルカによる福音(ルカ4・38-44)
  ほかの町にも福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ
〔そ のとき、〕イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イ エスが枕もとに立って熱をしかりつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えてい る人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、
「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。
「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

9月2日(火)

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント2・1-5)
  十字架につけられたキリストをあなたがたに宣べ伝えた
  兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、 イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしはひどく衰弱していて、恐 れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、”霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがた が人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

ルカによる福音(ルカ4・16-30)
  貧しい人に福音を告げ知らせるために、わたしを遣わされた。預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ
〔そのとき、〕イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。
 「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、
 主よ、がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、
 捕らわれている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由にし、
 主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。
「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。
「きっと、あなたがたは、
『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、
『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。
「はっ きり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起 こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされ た。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかにはだれも清くされなかった。」これを 聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは 人々の間を通り抜けて立ち去られた。

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  • 十字架
    2007年8月にESNACの里子たちに会いにインドの各地を訪問しました。スラムの子、捨て子、災害で親を亡くした子、ポリオで足が不自由で全く足で歩けない子・・・みんな笑顔で歓迎のパーティーは素晴らしいダンス・・・・そんなスナップです・・・ ・